ご飯に他人を誘う努力は必要だ

元々私は、他人と一緒に飯を食わないタイプだった。

それが顕著になったのは、社会人になってからだった。

ひとり飯に慣れた社会人生活

中学時代までは、班ごとに食事を取るように強制された。高校や大学は、価値観の合う友達が多くて、頻繁にではないにしても、誰かと一緒に飯を食べる方が多かった。

それに比べると、就職先には話が合わない人間が周りに多くなる。一緒に飯を食べるのが苦痛になっていった。

特にブラック企業で働く奴らとは話題も価値観も合わなかった。風俗だとかギャンブルだとか、くだらないことばかり話している。笑いあう輪に入るのが嫌で嫌で、自然と孤立するようになる。

ひとり飯(一人で飯を食うことだが、ほかに「ぼっち飯」などとも言われるようだ)に慣れてしまったのだ。すると、今度はまともな企業に転職しても、誰かと一緒に飯を食べることが苦痛になっていた。

一人で飯を食べるのは気楽だ。誰かに気を使う必要もない。スマホがあれば、暇を持て余すことも無くなる。

慣れると、他人と一緒に飯を食べるのが疎ましくなる。いつも一緒に数人で飯を食べるグループを見ているとバカバカしくなる。

「いつも他人とつるみやがって、ガキじゃあるまいし」
などと心の底で毒づいていた。

一緒に飯を食べることは楽しいと本能に刻まれている

だが、本当に一人で飯を食べるのが楽しいならば、他人がグループで飯を食べていようと気にならないはずなのだ。それなのに、わざわざグループで飯を食べている人々をバカにしていたのは、本音では他人と一緒に飯を食べたいし、それができない自分を正当化したかったからだと、今になって思う。

ひとり飯に慣れると、他人の誘い方を忘れる。他人を誘えなくなる。できないから意固地になる。

ひとり飯が気楽だと思っていたが、本当は寂しい気持ちを振り払うための虚勢ではなかったのか。

古代人の食事風景を想像する

他人と一緒に飯を食うのは本来ならば楽しいことだ。

なぜなら、他人と一緒に飯を食うと楽しい、と感じるよう、人間の本能にプログラミングされているからだ。

古代では狩猟にしても、採取にしても、集団行動が基本となっている。それは、原始的な生活をしているアマゾンやアフリカの原住民が、部族単位で食料調達をしているのを観ればすぐに想像がつくだろう。

たとえばマンモスなどの大型獣を大勢で協力して狩猟で仕留めたり、共同でドングリなどを採取したりすることは、集団で行ったほうが効率的に食糧を調達できただろう。

手段で食糧を調達した後は、火を囲みながら一緒に食事し、娯楽の少ない時代には、長老が語る物語を聞くことが、一族の何よりの団らんだっただろう。

こうした生活を数百万年の間続けていたのだから、「共同で飯を食べることを快楽と感じる」遺伝子が、人間には確実に備わっているに違いない。

孤立した人間の社会的価値は低い

本能に反して一人で飯を食う人間は、当然どこかがゆがんでいる。

私の場合、周囲の人間をバカにしていたから、周囲と合わせることが苦痛でたまらなかった。根本にはくだらないプライドが有った。低俗な人間にまじわると、自分の価値をおとしめると考えていた。

しかし逆だ。

他人の話からさまざまな価値有る知識を取り出すだけの発想力や推理力がなかった。
価値観が狭量で、価値基準が単純だったから、他人の価値を見出すことができなかった。
それができない自分自身に、それほどの価値がないことがわかっていなかった。

低俗な話題から価値を有る情報を引き出せない

異性の話もパチンコの話も、たしかにくだらない話題だ。低俗な話題だ。しかしどう受け止めるかは、自分次第だ。

たとえば、どのパチンコ店にどのような機種が人気なのか、どういう客層が多いのか、という話題を聞き出せば、地域ごとの住民の特徴があぶり出されるだろう。また、地域の景気の動向確認もできるかも知れない。

話す方は、どの店だと儲けられるか、という観点で話すのだろうが、聞く方は社会学的な観点、政治学的な観点で話を聞くことができる。

一般に高尚と言われる政治や経済と言われる分野の知識を、低俗な話の内容から得ることは十分に可能だ。音楽に興味あれば、今どんな音楽がパチンコ店で流れているのかとか、いろいろな情報を引き出してもいい。

多様な価値基準を他人に当てはめられない

どれほど嫌な人間であっても、くだらないと思う人間であっても、さまざまな価値基準に照らせば、何がしかの長所があるはず。

容姿で劣っていても、論理力という価値基準では上位に食い込んでいるかも知れない。
頭が悪くても、とても優しい人かも知れない。

世の中には様々な価値観がある。いくつもの価値基準を思いつければ、相手の長所に当たる価値基準を取り出し、相手を評価することができる。

多様な価値基準を自分の記憶にストックして、それをすぐに取り出すためには、日頃の努力が必要だ。訓練しなければ、価値基準を記憶できないし、思いつくこともできまい。

何より自分に価値がなかった

つまり、低俗な話題からでも、高い価値となる知識を得るだけの推察力がない。あるいは、さまざまな価値基準を相手に当てはめられる教養がない。だから、他人を安易に見下すのだ。

他人を安易に見下す人間は、周囲から孤立していく。孤立する人間の行動は、ギクシャクしていく。

人間は社交的な生物であるのに、コミュニケーションから切り離された人間の行動は、まるでロボットのように不自然になる。本来の人間の在り方と反しているからだ。

結果、さらに孤立を深め、不幸になってしまう。社会的に孤立し、他人に不快感を与え、おまけに不幸となって他人に依存するしか生きていけなくなった人間は、社会全般からみれば、価値の低い人間だろう。

他人を見下すような人間自体が、そもそも価値の低い存在だった。

自分を客観的に見たときに自由になれる

だが、自分が価値の低い人間だと悟った時、人はプライドから自由になれる。そして、自分の行動を改めることができるようになる。

まずは、さまざまな価値基準を自分の中にストックしておこうとおもった。つまり、他人の中にさまざまな長所を見いだす努力をするのだ。

ある基準では低い序列の人間が、別の基準では高い位置にいるなら、それを取り出して褒めるのだ。

また、他人の話すどんな話題からでも、連想を働かせ、想像を膨らませ、相手の意図とは異なるかも知れないが、自分にとっての有益な情報がないか、考えるようにした。そうすると、どんな人の話であっても、自分にとって価値のない話題というのはほとんどない、という事もわかってきた。

だから一緒に飯を食べる

孤立しないために、社交性を少しでも身につけるために、私が活用したのが他人と一緒に食事に行き、対人能力を少しでも人並みにする、という訓練だった。

もしもあなたがひとり飯に慣れてしまって、いま対人関係で苦しんでいるならば、誘うことのできる他人をなんとか探して、一緒に飯を食うよう努力してほしいのだ。

「飯を一緒に食べましょう」

と言っても、相手は嫌がるかも知れない。それは、過去のあなたの行動が理由かもしれないし、異性ならば、あなたの下心が見透かされたせいかもしれないし、あなたと一緒に話しても面白くなさそうだと思われたかも知れない。

しかし断られようとも「飯を一緒に食べましょう」とお願いする機会を増やすのだ。上記で説明したとおりに、人間には一緒に飯を食うと心地よく感じる本能が備わっている。

自分の食べたい人を誘うのではなく、訓練のつもりで、自分と飯を食べてくれる人を探すのだ。誰でも良いから声をかけていけば、一人や二人応じてくれるようになる。

あなたが女性ならば、選ばなければ比較的容易に、誘いに応じる男性(80歳の男性だっていいのだ!)を探し出せるだろうし、あなたが男性でどうしても一緒に飯を食べてくれる相手がいないならば、浮浪者に酒をおごってもいいではないか。
(私にももちろん、浮浪者と話をしたり、酒をおごったりした経験がある)

そして、飯を食べながら、相手の趣味を尋ね、その知識を尋ね、その価値観の意味を探り、その中の相手の努力、過去を評価する。褒める。長所をとにかく探すのだ。

何事も慣れから始まる

最初は、多様な価値観が自分の中にないから、嘘をつくことになる。しかし、その嘘で相手が喜ぶ。すると、自分が嬉しくなる。その行動を重ねると、嘘ではなく本心から、相手の長所を褒めることができるようになる。

これは一種のパブロフのイヌであり、自分自身をしつけることである。そこには努力が必要となる。

相手の長所を見出して評価できるようになった時、あなたと一緒に飯を食べても良い、と思う人が段々と増えていくだろう。そしてあなたは孤立しなくなる。

他人と一緒に飯を食べることを、目的ではなく、自分を高めるための手段として考えると、ハードルが低くなる。その心意気で、他人に飯を気軽に誘ってみてはいかがだろうか。

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