機嫌の悪い人間の機嫌を取るな

「説明の意味がわからない」と言われたときは

という記事で、

ただ、もしも単に上司があなたのことを嫌いだったり、機嫌次第で言うことがコロコロ変わったりする場合もある。それは論外、上司がクソということ。

と述べた。

感情の起伏が大きい人は社会に多い。理由もなく、機嫌不機嫌で態度が変わる。機嫌が悪いと他人に当たる。気を使わなければならない周りは萎縮してしまう。

出典:ぱくたそ

それが上司ならば、会社員生活はつらいものとなる。

感情の爆発が許される程度

感情をすべて理性で抑えられる人間はいない。問題は程度だ。感情の爆発、機嫌が悪くなることは、どの程度なら許されるのか?

女性の生理が参考になる。生理は約28日周期で女性にやってくる。生理時期の女性の多くは感情が不安定になり、それはどうしようもないことだ。

重い人もいるし、軽い人もいる。個人差が有るけれども、少なくとも私たちは、女性の多くが月イチで感情の起伏が激しくなることに対して寛容でなければならない。

ならば、男女問わず、月に一度の爆発程度ならば、許容するべきだろうとは思う。

だが、それ以上となると論外。毎日のように怒りを爆発させている人間、週に2,3回、機嫌が悪くなる人間は、感情の起伏が激しいと言える。

感情の起伏が激しい人間の末路

激情型の人間は、幸せになれない。

仕事ができる人もいる。怒りを仕事に向けてバリバリ働き、部下を叱咤して動かするタイプの人間だ。しかしその場合でも、多くの家庭は崩壊している。一見平和に見えても、いつも満足できず、死ぬ間際になって、

「自分の人生はなんだったのだろう?」

と猛烈な虚無感に襲われている人のなんと多いことか。

家庭に安住に場所を見つけられなかった人生は悲惨である。

家庭という閉ざされた空間に常に機嫌の悪い人間がいると、周囲が疲弊してしまう。疲弊した家庭はいつか崩壊する。

崩壊した家庭を抱えた人間は総じて不幸である。

なぜ人間に怒りの感情があるのか?

怒りがその人の人生を壊すのだとしたら、なぜ人間は、感情というものを備えているのか?

これは、考え方が逆である。

もともと感情が動物に備わり、それを理性が発達することで人間に進化してきた。だから感情は、人間以前の遺産なのだ。

感情とは条件反射のようなものであり、動物にもともと備わった本能の一種といえる。

イヌを殴れば怒る。なでれば喜ぶ。飯を与えなければ悲しみ、飯を十分に食べれば満足する。

この種の喜怒哀楽は、動物全般が持っている。表情を顔に表さない爬虫類にも備わっている。その理由は、生きるためだ。

生きるための自動的な脳の反応作用が感情というものであり、それがないと動物は生き残ることはできない。「飯を食いたい!」という身体を突き動かす欲求、襲ってくるものを恐怖して逃げようとする恐怖の感情がなければ、動物は死んでしまうだろう。

理性という進化

ただし人類は、進化の過程で理性を身につけた。目前の食糧をすべて平らげずに、備蓄に回す。嫌な人間がいてもすぐに殴らずに、我慢する。こうした理性の発達が、人間の生活を向上させてきたし、社会性を育んできた。

今の研究では、ゴリラのような類人猿にも立派な理性があることが分かっているし、社会性を持つ動物全般に、人間のような理性の片鱗があることも知られている。けれども、人間の発達にはおよばない。

人類は、理性で感情の爆発を抑えるよう進化してきた。だから、理性で感情を抑えられない人間は、発達の度合いが低いと言える。

感情の起伏ある人間と「合成の誤謬」

職場の話に戻そう。

あなたの上司が機嫌不機嫌の差が激しく、周りが迷惑しているとしたら、その上司は進化の程度が低い、発達の度合いが低い、低レベルの人間だと言える。

しかし、低レベルの人間だからといって、仕事ができないかというと、これが別問題なのが面白いところだ。

人類全体にとっては、あらゆる人間が理性で感情を抑制させていくことが良いことだろう。家族というレベルでも、怒りが家庭を疲弊させる。

しかし、会社という単位では、怒りによってうまく部下を動かしている例はゴロゴロ転がっているし、怒りや悲しみをモチベーションとして、クリエイティブな作品を作る芸術家も大勢いる。

これは「合成の誤謬」と言われるものの一種かも知れない。

合成の誤謬とは、一人ひとりが正しいとされる行動をとったとしても、全員が同じ行動を実行すると、悪い結果を招いてしまう事例のことを一般には指す。

同時に、全体としては正しい結果を招くものだとしても、その一部にとっては、うまくいかないこともある。理性を抑えることは人類にとっては正しい進化の方向では遭っても、社会の一部では、うまくいかないこともあるだろう。

感情の起伏の激しい人間でも仕事ができる人間が多い原因の一つかもしれない。

低レベルに自分を合わせてはならない

とはいえ、数万人を率いるような経営者、数千万人もの人を熱狂させる芸能人や芸術家のような特別な存在はともかく、職場や家庭レベルとなると、仕事ができると言っても、感情の起伏の激しい人間は、社会に与える害の方が大きい。

人間を疲弊させて壊してしまえば、社会全体から見れば、その人間を育てるために社会資本が支払った数千万円を無駄にすることになるからだ。

だから、機嫌の差の激しい上司の価値は無い。人間としても低レベルだ。そのような上司のために、自分の神経をすり減らしてはいけない。

低レベルの人間に合わせていると、自分もまた低レベルとなってしまう。自分を向上させたいならば、「機嫌を取ろうとする」=「低レベルの人間の感情に合わせようとする」という考えを改めたほうが良いだろう。

機嫌を取るよりも考えるべきこととは?

機嫌が悪い人が現れたとする。そのときに、
「機嫌悪い人の機嫌がよくなるようにしよう」
と考えることは、果たして正しいことなのだろうか?

相手の機嫌を取ろうとして、うまく言った場合、機嫌が悪かった人も、周囲の人も、どちらもハッピーとなる。しかし、考えて欲しい。うまくいかない場合の方が多くないだろうか?

なぜなら、機嫌の悪い人間は勝手に機嫌が悪くなっているのだ。その人間が悪い。いくらその人間が、「自分の機嫌を取れ」と要求しても、低レベルの人間の低レベルの要求に応えてはならない。ただひたすら、職場にとって必要な最低限の行動(正しく報連相を行い、しっかり顧客対応をし、しなければならないことを淡々とする)を取るように努力すればいい。

それに、機嫌の悪い人の機嫌を取ろうとしてうまくいかなかった場合、機嫌が悪い人だけではなく、周囲もまた機嫌が悪くなる。これは最悪だ。だれも得をしない。

一番に優先することは、無駄な努力に陥ることが多い「機嫌の悪い人の機嫌を取る」ということよりも、自分の機嫌を取ることではないだろうか?

なぜなら、他人の機嫌よりも、自分の感情を穏やかにするほうが、はるかに楽だからだ。機嫌が悪い人は機嫌が悪いままかも知れないが、あなたの機嫌は悪くならない。

しかも感情は伝染するので、機嫌が悪い人も、周りの人の感情が穏やかならば、自然と穏やかになることが多い。

職場の雰囲気をよくする確実な方を選ぶとしたら、機嫌が悪い人に出会ったら、まずそれに感染せずに、自分の機嫌をよくさせよう、とすることを選んだほうが良い。

 


 

こちらのせいではないのに、勝手に機嫌が悪くなり、他人に当たる人間は世の中に大勢いる。それがあなたの上司かも知れない。仕事はできるかも知れないが、人類全般から見たらその上司は低レベルな人間だ。

低レベルの人間の低レベルな行動に翻弄されてはならない。

それよりも、自分の感情を優先し、淡々と仕事を行おう。それが結果的に、職場の感情レベルを一定にし、機嫌の悪い人間の感情を変えていく。

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