自慢話とマウントの取り合いについて

自慢話とマウントの取り合いについて

誰かの自慢話を聞いている周囲は、賞賛している人ばかりではない。むしろ、カッコ悪い、ダサいと思いながら聞いている。

しかし、自慢話を語りたがる人とも仲良くしなければならない。だから嫌悪感を隠して、ニコニコと自慢話を聞きながら、おべんちゃらの一つでもいう。人間関係を良好に保つためだ。

ただ、誰かの自慢話をカッコ悪い、と考え、心穏やかに聞けない場合その美意識自体に疑いを向けてみると、見たくないものが潜んでいたりする。

他人を否定する人の根底には劣等感がある

潜んでいるのは多くの場合、劣等感だ。

人は妬む自分を認めたくない。代わりに自慢をする人間のことをおとしめてプライドを保とうとしている。プライドが傷つけられることを避けるための自衛本能だ。

しかし、いくら糊塗しようとも、妬みの感情から来ていることはすぐに見透かされる。

他人の自慢話を嘲笑してみせているつもりでも、他人からは、
「この人、ひがんでいるのね」
と逆に笑われている。

欧米ではキリスト教の影響で、自分の心の中にねたみやそねみという感情があることを忌み嫌い、その持ち主を軽蔑する。

罪深い意識が少しでもあることを恐れるし、ましてや他人に悟られたくないものだから、自慢話に対してダサい、と発言することは日本よりは少ない。だから褒めあう。こうしてFacebookが隆盛を極める。

他人の自慢話にイイネ! と賞賛することで、自分は他人の成功をねたむようなクズではありませんよ、とアピールしあっている。

自慢話を我慢して聞かなければならない世間

それに比べて日本では、愚痴を言うことが許されて来た国だ。卑しい感情があっても良いじゃない。人間だもの、というわけだ。

自慢話をすることをダサい、かっこ悪いと思えたり言えたりする雰囲気があるのは、寛容の精神の現れだろう。

ところが日本でも、最近はタテマエばかりで、愚痴を言ったり本音をさらせなくなって来た。同時に、他人への妬みを表明することが許されない社会となりつつある。

Facebookも流行らなさそうに見えて、無理に続けている人が増えている。誰かの自慢話を聞いて、わざわざ嫌な気持ちにならなくても良さそうなものだが、社会が変容してきているのだから仕方がない。

お陰でFacebookを利用した個人認証サービスが増えてきていて、私も使わざるを得ない。困ったものだ。

出典:ばくたそ

ただ、他人の成功を賞賛するのには、自分が嫉妬をしないまともな人間であるとアピールする以外にもう一つの意味がある。

マウントを取り合う人々

格闘技がブームになった頃から、「マウント」という言葉が、人々に知られるようになった。

元々は生物学で「動物が自己の優位性を示すため、相手に馬乗りになること」を指していた用語だったが、それが格闘用語に取り入れられ、リングアナウンサーが多用したことから知られるようになり、「マウントを取る」などと日常でも使われるようになった。

この言葉をよく聞くようになったのは、私達の行動の多くがマウントの取り合いであることが知られるようになったせいだ。

すなわち、私たちは日常生活の多くの場面で、他人を蹴落とすために会話をしている。「できない人を責めてはならない」という記事に書いたとおり、相手を責めるのも、マウントを取るためだろう。そういう観点から人々の会話をとらえることができる。世の中は意地の張り合いなのだ。

自慢話をするのはあからさまな、周囲へのマウントであろう。

そして、自慢話に嫌悪感を覚えるのはマウントを取られないための自衛的な態度だろうし、さらに「カッコ悪い」と相手を貶めることは、マウントの取り返しと言えるかも知れない。

では、自慢話をする人を賞賛する行為は、相手のマウント行為に屈服することなのだろうか?

そうではなく、マウントを取ろうとする相手に「効いてないよ」とアピールする姿に近い。

屈服に一番近い行為は、悔しがることだ。

マウントの取り合いという側面から観れば、他人の自慢話を聞いて賞賛することは、自分を良識ある人間であるとアピールすると同時に、相手のマウントへの抵抗という意味が含まれている。

世の中が意地の張り合いだとしたら、自慢話を興味深げに聞いてみせて、凄いね~と言って見せるくらいの余裕は持ちたいものだ。

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