批判的な人は、親の愚痴に影響されていないか?

批判的な人は、親の愚痴に影響されていないか?

社会問題に関心を持ち、社会に批判的であることを誇る人がいる。

かつての私もそうだった。

社会批判が世界を変える

学者タイプの人に多い。金を稼ぐことに執着しない。代わりに、立法や行政に働きかけて社会を変えることを望む。社会制度自体に批判の目を向け、社会をどう改善すれば良いのかについて、熱弁をふるう。ビジネスよりも市民運動に価値を置くタイプだ。

社会を批判的に見て、その原因を探り矛盾を解消しようとする市民運動が、今の社会を良くしてきたことは間違いない。ビジネスではなく、政治に身を捧げる人生は素晴らしい生き方だ。よって、社会を批判的に観ること自体は悪いことではない。

問題は、社会を批判する人には批判自体が目的となっている人が多く、批判が習性になったために、誰から構わず批判せずにはいられなくなる傾向があることだ。

特に、頭がいいと他人のあらがよく見えてしまう。

その鋭い絶望で、家族を批判する。友人知人を批判する。その先に、世の中への批判があり、社会への批判があるのだとしたら、身近な人を批判することは社会を良くする一歩と言えるので一概に否定もできない。

しかし、批判されることはとても不愉快であり、周囲を不幸にする。

だから、批判は程々にしたほうが良いのだが、さて、なぜこうも自分が批判的になったのだろうと、以前自省したことがあった。

愚痴をこぼす母

内省を深める中で浮かび上がったのが、常に愚痴をこぼし続けていた母の姿だ。

私の母はとにかく愚痴っぽかった。

夫(私にとっての父)の稼ぎが悪いと嘆き、夫が家事を手伝わないと文句をつけ、子育てに関心がないと批判する。

それを私たち子供に聞かせる。食事の時に、父がいかにダメ人間なのかを語る。文句を述べる。

「親が働いているんだから、親の愚痴を聞くことが子供の役目だ」

と母から面と向かって言われたこともある。母が苦労しているのは知っていたから、私は黙って母の愚痴を聞かざるを得なかった。

愚痴を聞くのは嫌だったが、子供に断る権利はない。

しかも、話を聞かないと母は逆上する。

ぱくたそ

仕方なしに、ときには1時間近く、黙って、時には相槌を打ってやりながら、その愚痴を聞く。

愚痴を吐く人間にならないつもりだったのに

子供の頃に母の愚痴を聞きながら心に誓ったのは、社会人となっても、親となっても、愚痴を吐くような人間にはなるまいということだった。

ところが、他人を批判する私自身の姿は、愚痴を言う母の姿と重なった。

母の愚痴は、夫への批判だった。母の、勤め先に対する愚痴は、勤め先への批判であった。隣近所の人や、親戚、家族への愚痴は、他人への批判だった。愚痴を吐く人間にはなりたくないと思いつつ、その姿を見にくいと考えるのならば、他人を批判する私自身の姿も、相当醜かろう。

それに、社会批判も、社会への愚痴だと思うととたんにかっこ悪いものに思える。自分が社会を変える立場にいるならば、社会批判は社会改革の一歩となるだろう。もしも野党政治家ならば、与党を批判することがその存在理由だし、社会批評家ならば、社会を的確に批判することにより、人々の関心を集めることができる。

ところが、私はそのどれでもない。それなのに、社会を批判したり、周囲に批判を伝えたり、ネットに書き込んだりしても、何かを成し遂げた気になっているだけではないか。

それは一種の愚痴だ。

愚痴は他人を良くしない

母の愚痴は、家族の雰囲気を悪くした。

母の愚痴が家族を幸せにしたことはない。むしろ家族を蝕み、のちのち家族をバラバラにする原因の一つとなった。

社会への無駄な批判も、社会を良くするどころか、批判された方のモチベーションを下げる働きがあるから、害悪でしかない。愚痴のような批判なら、しないほうがマシだ。

社会批判を生き方として選んだのではなく、他にしなければならないことがあるのに、批判をして溜飲を下げているだけならば、それは単なる愚痴のようなものであるから、ひかえた方が良い。

自分がいちばん嫌だった母と同じことを、今自分がしているということに気がついた時、私から、安易な社会批判をする気持ちが次第に失せていった。

かつての私と同じように批判がましい人が周囲にもいたが、生い立ちを聞くと、母親が愚痴っぽい人が多かった。

もしも自分の姿が、愚痴をこぼす母親の姿に重なるようならば、一度生き方を考え直したほうが良いだろう。

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