発達障害者が定型発達者と同じように幸せになるために

発達障害者が定型発達者と同じように幸せになるために

前回の記事「発達障害は健常者のハードルが上がって生まれた」で、発達障害が産業構造の変化によって障害とみなされるようになった背景について述べ、今後の社会が、さらに発達障害者へ厳しいものへと変化するのではないか、と述べた。

この厳しい時代に、発達障害者はどう対応したら良いのだろうか?

発達障害者の心理の裏にあるもの

発達障害については、専門家がさまざまに説明をしているので、もしも学問的に正しい答えをお知りになりたいならば、書店で専門書をお買い求めになってお調べになるべきだ。

この記事では、私の主観を述べたい。

一般には発達障害(ASDやADHD)者には、

知的には通常だがグループ活動が苦手で会話がかみあわず、なにごとも自分流にこだわる

とか、

思い付きで行動しやすくかったり、自分の言いたいことばかり話して相手を否定しがち

などの特徴があると言われている。

その根底、心の奥底には、どのような感情がうごめいているのか?

「自分と違う価値観、特に、間違っていると思う価値観を肯定することへの抵抗」が根底にあるように思う。

間違っていることへの反感が根強い

そもそも、発達障害者は他人と違った行動を取ることが多い。この変わった行動に対して、当事者は周囲に寛容を求める。ところが、発達障害者自身は他人の過ちをガマンできなくなる。

特に、公平性だとか、公正性に反することをガマン出来ないのだ。

これが周囲には、身勝手さにうつる。いや、実際に身勝手なのだが、発達障害者自身は、それに気づけかないどころか、正しいと思いこんでいる。そして、そういう自分の感情をコントロールができない。

たとえば、ある発達障害者のブログに次のような述懐が有った。

会社員時代、コース料理ではない飲み会で上司から「好きなものを頼め」と言われた。
だから高いメニューをいくつか頼んだら、上司が露骨に嫌な顔をした。
そっと先輩に呼び出されて「そこそこの値段に抑えるもんだよ」と注意された。
心の中で「知りませんやん!」と思ったが、社会では知らない私が悪いらしい。

天敵・飲み会(1)~苦手な理由~

このブログの作者を責めるつもりはないので勘違いしないでほしい。あくまで発達障害者の一例としてたまたま検索に引っかかったから、挙げているだけなので、作者の方がご覧になってもご勘弁いただきたい。

この文章からは、上司の言葉への嫌悪感がにじみ出ている。この方は、他にも上司と部下を区別してビールを注ぐかどうかを決めることも大変だと書いている。

だが、こうして書いているのだから、知識として「本音と建前が異なること」「建前で言っていても限度があること」「人を身分で区別すること」などが職場で必要とされている、と分かっているのだ。

分かっているならやればいい。でも、できない。やろうとすればできるのに、やる気になれない、心の奥の方から、憤りが吹き出すからだ。

理不尽への強い怒り。それは、世の中を改善してきた原動力だ。感情が私利私欲を吹きとばし、公益のために行動へと突き動かす強いエネルギーが心の底にうごめいているのだ。

そのエネルギーを備えた人間が世の中の指導者となったとき、彼は世の中を変革して、後世に英雄と讃えられるかもしれない。しかし、同時代の同じ指導者層からは忌み嫌われるだろう。そして、英雄となれない人材は、同僚から忌み嫌われ、不遇な社会生活を送ることになる。

リーダーになれないのならば何の役にも立たないこの種の憤りを、底辺から中間層にとどまっている人間は、持つべきではない。

ところが、持つべきではないと言われても持ってしまうのが発達障害者の発達障害者たる所以で、要は自分の感情をコントロールできないのである。

感情のコントロールが難しい

この種の感情が遺伝的なものだとしたら、劣性遺伝子によるものかもしれない。

なぜなら優性遺伝子だとしたら、平和な時代には淘汰されていたに違いないからだ。

劣性遺伝子として、人類の中に備わった「公正なることへの強い欲求」遺伝子は、平和な時代には姿を潜め、劣性遺伝子の持ち主同士が出会ったときに顕現し、淘汰されていく。ところが、格差が広がり不公平感が世の中にうずまき、乱世になったときにリーダーとして選ばれると、改革者としてもてはやされ、遺伝子を多数残し、それが拡散されていく。

そのような歴史を夢想する。

いずれにしても、発達障害者の「公正なることへの強い欲求」は、普段の社会生活の中では邪魔になるものだ。それをどうにかして抑えなければならない。

でもどうやって?

感情コントロールのためには瞑想が良い

いろいろな方法が提唱されているけれども、私は歴史的な検証を経ている、という理由で、感情コントロールの問題を解決するためには座禅を組むのが一番だと考える。

瞑想とも言われるし、メディテーションとも、坐忘とも言い換えても良い。

座って、30分以上、ひたすら自分の呼吸を数え続ける。他のことをどうしても考えてしまうから、考えないようにする。これが感情コントロールの訓練法だ。どうしても考えてしまうことを、考えないようにすることが鍛錬となる。

できない? だから発達障害なのだ。そこを発達させなければならない。それには数年、下手をすると数十年かかるだろう。

ただし、それだけの価値はある。

座禅を重んじてきたのは仏教だが、仏道修行をした人々には不思議な魅力があることが知られている。人を惹きつける力とは魅力のことであり、魅力があるということは、他人から好かれ、他人から一緒にいたいと思われること。それはコミュニケーション能力が高い、ということでもある。

滝に打たれる時間は現代人にはないかもしれないが、寝る前に30分、座って、呼吸を数えながら、ほかのことを考えないように訓練する時間くらいは取れるだろう。

最近Googleなどの先端企業でも、マインドフルネスと言って、瞑想を推進している。第三次産業の旗手の社内で瞑想を重んじるのは、現代が感情コントロールが重んじられる社会を象徴しているのかもしれない。

できなければ、できる人をコピーしてしまえ

とはいえ、禅宗などでは、悟るまでには数十年以上修行が必要、という話をよくきく。時間がかかるのだ。刑務所でも、更生のためには何年も刑期を勤めなければならないように、人間が生まれ変わるには時間がかかる。

瞑想の効果が出るまでは、人によってそれぞれ。効果が出ないまま、若い時代を、あたら無駄に過ごしてしまうのももったいない。

自分の感情をどうしてもコントロールできない。それでもまともな人生を歩みたいのならば、日常から仮面をかぶるしかない。

ぱくたそ

社内でうまくやっていて、自分と似たタイプの人間を、日頃からコピーしてしまうことをおすすめする。彼(彼女)と同じような行動を恥ずかしげもなく真似るのだ。

前述の感情の発露は、日常の業務で自由に過ごしていると、起こりやすい。ところが、普段から仮面をかぶるようにしていると、感情の表出が阻害されるようになり、地を出さなくて済むようになる。

主体性がない? しょうがない。それが自然にできない未発達の自分が幸せになりたいのならば、誰かのコピーをするしかないじゃないか。発達障害者は歯を食いしばりながら、我慢してそれについていかなければならない。やがて仮面が自分の顔にはりつき、自分の顔となる。

それが嫌だったら、周囲とぶつかりながら、瞑想を根気よく、感情コントロールができるまで頑張るしかない。その頃には歳を取っているかもしれないが、年老いてつかんだ幸せは、何物にも代えがたい美酒となる。

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