発達障害は健常者のハードルが上がって生まれた

発達障害は健常者のハードルが上がって生まれた

現代社会では、コミュニケーション能力を重視する風潮がますます強くなっている。

以前、「対人関係や転職で苦しむすべての人へ」でも、

現代はコミュニケーション能力が重視される時代だ。

記憶能力や計算能力、検索能力や整理能力などはコンピューターに代替されるようになった。私達に求められる仕事、残された仕事は、「顧客にとって、相手が人間であることを求めるもの」に集約されつつある。

と書いた。

人間相手の仕事では、他人とのコミュニケーションが必ず要求される。コミュニケーションを必要としない仕事がコンピューターに取って代わられるIT社会は、それに対応できない人々の存在をあぶり出す。

ぱくたそ

発達障害者だ。

発達障害のクローズアップが意味すること

「発達障害」という概念自体を知らない人は、今は少なくなったように思う。

ラジオ、新聞、テレビ、ネット、どのような媒体でも、発達障害について特集を組むようになっている。それだけ、社会的に大きな課題となっているからだろう。

問題なのは、猟奇的な事件が起きると発達障害に関するネガティブな報道が増えることだ。犯人に発達障害がある場合が多いからだ。

おかげで発達障害者が犯罪者予備軍のような扱われ方をすることもしばしばあるが、最近の調査では、日本人の児童の1割になんらかの発達障害が見つかっている、という。日本人の人口の1割が犯罪者予備軍? そんなわけはあるまい。

それにしても、と思う。

数十年前には一切報道されていなかった発達障害者が、なぜここ数年の間にかくも増えたのか? 遺伝的なものならば、有史以前から存在して、問題とされるべきではなかったのか?

疑問だったが、以下のような指摘を知り、目からウロコが落ちるようなショックを受けた。

発達障害が最近多くなったのは、環境の変化のせいでも診断レベルが上ったせいでもない。近年、コミュニケーション能力が低いことが「障害」と認識されるようになったせいだ。

意味するものは、深刻である。

産業の高度化が発達障害を障害にした

ちなみに、今回の記事で「発達障害」と呼ぶとき、ASD(アスペルガー症候群や自閉症)とADHDについて述べようと思う。学習障害や、不器用の問題である発達性協調運動障害もまた発達障害ではあるが、今回は含めない。

さて、Twitterではこんな言及もみつけた。


@ukkari8hatchbeiさんによれば、発達障害が「障害」とみなされるようになったのは産業の高次化によるものであり、それは第一次産業から第二次産業へ、という流れでも同じような現象が見られた、というのだ。

産業の分類と障害の種類との思いもかけないマッチングは、意外だったため驚くと同時に、大いに納得するものだった。

知的障害者でも重んじられた大戦前

乙武洋匡さんが『五体不満足』という本を書いたのは、世の中にある身体障害者への根深い差別を覆す意図があったからだ。それだけ五体満足を人々が望んでいるからだが、その歴史は古い。人類の歴史が始まって以来、身体の何らかの障害は、人々が忌避するものだった。

ところが、その時代、頭の悪さはそこまで問題視されなかった。

現代だったら特殊学校に通うレベルの知的障害者であっても、力仕事ができれば人手として重宝されて、喜ばれていた。家庭だって当たり前に持つことができた。

一例を上げると、長子相続の伝統が重んじられた江戸時代、将軍職という日本のトップに知的障害者が就いてもかまわなかった。13代将軍家重がそうだと言われている。

知的障害者は排斥されるようになった

ところが、太平洋戦争後、日本は第二次産業の興隆を迎える。

工業社会の到来だ。農作業や林業よりも格段にむずかしくなった作業を行なうためには、知的障害の有無は大きな意味を持つ。その頃から、頭が悪い者への差別がひどくなった。バカを軽蔑する風潮が強くなった。

昔はもっと、馬鹿であることが愛されていたように思う。人々は馬鹿にしながらも、なにかれと世話を焼き、力仕事さえできれば不問としてきた。

しかし今は、古典落語の世界のように与太郎が愛され、所帯を当たり前のようにもてる時代ではなくなった。現代社会では、知的な能力の低い者は、同等の仲間として遇されにくい状況となっている。

対人能力、社会的能力の欠如が障害になる時代

同じような流れで、社会の産業のサービス化(第三次産業化)により、コミュニケーションの下手な人々が「障害者」へと追い込まれていったのだ、という。

たしかにそうだ。第三次産業であるサービス業とは、人へサービスすることを業とするものであり、対人相手のコミュニケーションが取れない者はこの種の仕事の遂行が困難だ。

第二次産業から第三次産業へという大きな枠組みの転換が、この変化を生み出した。

発達障害が産業構造の転換という時代が生み出した構造的なものだとしたら、意味するものは深刻である。

なぜなら、構造変化が進展するにつれ、この風潮が今後ますます強くなっていく可能性が高いからだ。

産業構造の変化が、人材を厄介者へと変える

「発達障害」という概念は、これまで気づかれなかった本人の生きにくさが可視化されたものだから、研究が進むにつれ、発達障害がある者でも社会で受け入れられていく、という方向に進むと、私は思っていた。

だが、時代の変化が発達障害を生んだのだとしたら、社交性の低い下の者から順番に厄介者扱いされていくという方向に社会は変わっていくのかもしれない。

そういえば、SNSを見ていると、発達障害を持つ子どもたちへの風当たりが、最近やけに強くなったと思わないか?

「個性」とみなされていた自分勝手な行動や自閉的な行動を、やたらと忌避する風潮がSNS上で見られる。「まともな」子の親にとって、発達障害の子供に振り回されるのは勘弁してほしいことらしい。

それに対して、数十年前に学級崩壊が問題になった時代には、子供ではなく教師に責任を求めていた。子供は騒ぐものだと、皆が問題視していなかったからだ。

これまで認められていた子どもの行動をおかしいと感じる大人たちの価値観が、子供たちの感性へ反映されると、次の世代の社会の在り方が変わっていくのかもしれない。

引きこもり、結婚できない人々の増大、就職氷河期世代の受難

それにしても、こうした構造転換の荒波をもろにかぶったのが、団塊ジュニアと言われる世代の人々だ。

彼らが子供の頃は知的能力が求められた時代で、団塊の世代の親たちは、我が子を競ってお受験戦争へと駆り立てた。ところが、社会人になると構造変化のために、身につけた暗記能力などが役に立たない世界へ放り出されて、少なくない数が発達障害の烙印をおされ、多くの人々が働く場所に恵まれずに苦しんでいる。

悲劇以外の何物でもない。

引きこもりだとか、結婚できない人々の増大とか、ワープアの増加の問題なども、こうした時代の枠組みの変化が大きな影響を与えているのだろう。

 


 

こうした時代の進展は、発達障害者に区分された者にとって見れば暗澹とするしかないが、ただ、光明はある。

なぜなら知的能力と異なり、コミュニケーション能力欠如は、学習によってある程度「あるかのように」振る舞うことができるからだ。

詳しくは次回の記事に譲りたい。

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