共存のためには生理的嫌悪感と戦わなければならない

共存のためには生理的嫌悪感と戦わなければならない

以前ゲイの知人から体中をさわられた経験がある。

同僚からゲイだと告白された

今から20年以上前、フリーターをしていた頃だ。バイト先で私と仲良くなった同僚(仮にAとする)から、ゲイであることを告白された。

いかついストリート系のファッションで固めているのに、オネエ言葉を使うから、多分そうだろうなと思っていたから、カミングアウトされても特に衝撃は受けなかった。

それにゲイに偏見も嫌悪感も興味もなかったから、「そうですか」とシンプルに反応して、それ以上突っ込むこともなかった。

同僚から身体をさわられる

ところが、私に告白して、私が普通に接しているのに気を許したのか、それからすぐ行われた会社の飲み会で、Aは私にベタベタとひっついてきた。

ここで無下にしたら彼が傷ついてかわいそうだな、と思ってくっつくままにしていたら、
「waonさんは、ゲイから見たらすごい魅力的なのよ」
と言われた。

「ああ、どうも」
と答えるしかなかったが、Aはそのあと図に乗り始める。

「ねえ、こうしたら誰でも『感じる』んだよ」
と言いながら、私の太ももを5本の指でゆっくりと触り始めたのだ。いわゆるフェザータッチ、というやつだ。

性的対象として触られるのは、単なる身体的接触と異なる

そのときの感覚を今でも覚えているが、ゾワゾワゾワ―という嫌悪感と吐き気がして、一瞬身体が動かなかった。

スポーツをすれば身体的接触は頻繁にある。それと同じで、男に触られるくらい、別にどうでもないと思っていたのだが、性的対象として触られる、という経験はそれとは違った。

それから気を取り直した私は、
「そういうのは俺は嫌なんですよ。興味ないから」
とAの手をひねり上げた。

彼は「痛い痛い」と大げさに騒いで終了。周囲の人間は、単に友人同士のじゃれ合いだと思ったことだろう。

それからAは何もしてこなくなった。私が本気で嫌がってたのが伝わったからだろう。

翌日からの関係に特に変化もなかった。それからしばらくして私はバイトを辞めた。飲み会の一件とは無関係で、別のバイトを見つけたからだった。彼の消息は分からない。

ゲイが苦手だと公言する正当性

それ以来どうにもゲイが苦手となった。ゲイは好きではない、と周囲に公言したこともあった。

私がゲイへの嫌悪感を表明するのは、痴漢をされたことのある女性が、
「男から性的対象に見られるのは不愉快」「男が怖い、不快、苦手」
と公言するのに似ている。

飲み会の席とはいえ、あのような痴漢行為をされ、不快に感じた私には、ゲイへの嫌悪感を表明する権利はあるのではないか、と考えていた。

LGBTの権利尊重の流れ

だが、ここ数年、ご存知の通りLGBTへの権利擁護を求める風潮が強くなっている。

積極的に知識を得たわけではないが、報道でLGBTへの差別の歴史を自然に学ぶことも増えた。

だから、望んでそう生まれついたわけではないのに迫害を受けた過去を持つ彼らが、危害を加えられず、自由に生きられる世の中になることは良いことだと、私も考える。

こうした時代の変化の中でよくよく考えるうちに、全てのゲイに私の同僚だったAを投影してはならない、という当たり前の事実に思い至る。

彼と彼の所属集団とは違うのだから、ゲイ全体への嫌悪感を持つのはおかしかろう。差別的な感情に修正を加えねば、と考えた。

礼儀として嫌悪を表に出さない

当時は身近にLGBTの知り合いはおらず、普段会うこともない。それでも時折、ゲイのやらかしたニュースを聞くことはある(国会議員がゲイを買春したり、とか)。

その時に、反射的に嫌悪をあらわにすることをやめることにした。同僚がこうした話題でゲイをからかおうとも、それには乗らないことにした。

本能や感情に流されるのは動物と同じだ。人間ならば理性で自分の悪しき感情を克服しなければならない。

差別的言辞をするまい、と心がけることで、人間の差別心は次第に減っていく。

それから、数年以上たち、転職した先が外資系だった。ゲイが多い職場で、自然にゲイの友人も数人できた。みな良い仲間だし、彼らと喋り、肩を組んでも何の嫌悪感も覚えない。努力と時間がいろいろなものを解決したのだろう。

差別を正当化する人々は世の中にあふれている

人権は、現代社会でもっとも大切な考え方の一つだろう。どのような人間であっても、生まれつきのものを他人からけなされ、侮蔑される言われはない、というのは大切な思考法だろう。

だが、この思考法は、時に人間の感情とは相容れない。人間の感情は、本能的なものもあれば(熱いものに「熱い」と感じるとか)、それまでにつちかった価値観から生まれるものもある。後者から生まれるのの代表が、ある特性を持つ者への強烈な嫌悪感だろう。

それをできるだけ消し去るのは、理性をもった人間の義務であろう。たとえ傷ついた過去があろうとも、部分を全体視する過ちは改めねばなるまい。

ただ、私の場合は時代の風潮が過ちに気づかせてくれたが、時代が理性に追いついていないものもある。

例えば以下のツイートのようなものだ、これは差別を正当化ではないのか。

カルフーンのネズミの実験

立花隆の『文明の逆説』に、イギリスの研究者カルフーンがネズミを3代育てて実験した結果がエピソードとして紹介されている。

参考:ぱくたそ

意図的に「ギリギリのストレスとなる過密状態」で育てられたネズミの子孫からは、同性愛のネズミや幼児性愛のネズミが生まれ、ついには育児放棄などが始まった、と。

実験は、過剰な頭数増加を調整しようとする自然界の摂理の存在を示唆するが、ここで取り上げたいのはそこではない。

多様な性的嗜好は動物界にはよくあること

ここで取り上げたいのは幼児性愛の動物は自然発生する、という事実だ。

また、今は野生動物の観察結果などにより、過去において性的倒錯者と呼ばれる行動を取る動物が、自然界によくいることも知られている。ボノボやペンギンなど、さまざまな野生動物にさまざまな性的嗜好の持ち主がいることもわかっている。

自然に発生するものならば、それは「神の摂理」ではないのか。本来性によるものならば、幼児性愛は同性愛と生来のものという点では、なんら変わりはないのではないか。

生まれつきのものと、どう共存するか

今はLGBTばかりが生まれつきの性的嗜好として取り上げられているけれども、それ以外の性的嗜好者にもまた、先天的な者が数多くいるのだろう。

そして、生まれ持ってそうなのならば、社会に悪影響を与えない限り彼らの存在は許容しなければならない。

Twitterで異常行動をする人間はブロック

嫌悪する感覚は分かる。私も見たくはない。

たとえば普段面白いつぶやきをしながら、Twitterで女性の半裸のイラストをよくRTするような人は見かけるたびにできる限りRTブロックしている。Twitterのような公共の場でそのような発言をするべきではない。

しかし、BBCの番組で取り上げられたロボットは、公共の場にやってくるものではないだろう。

私たちはTwitterでブロックするするように、公衆の前への登場を防ぐ権利はあろうとも、その存在を否定する権利はないのではないか?

幼児性愛の欲望を現実化させてはならない

ただ、LGBTと異なり幼児性愛者のターゲットは幼児だ。抵抗のできない、守らなければならない存在への性的欲望の現実化を決して許してはいけない。

ただ、あのロボットは、彼らが社会に悪影響を与えないための情欲のはけ口、代替手段ではないのか? それが社会に用意され、彼らが情欲を現実化しないよう努力させるのは健全な社会ではないか?

そのお陰で、一人でも悲惨な事件のターゲットとなる子供が減るのならば、素晴らしいことじゃないのか? それこそ”One is too many.” なのだから。

そのような社会の草の根の努力を嫌悪して、Half Moon st./半月通り (@halfmoonst)のように「まともな倫理観ではない」と言うのは、数年前までのLGBTへの攻撃者と何が違うのだろう。

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