できない人を責めてはならない

できない人を責めてはならない

学生時代に、私からみれば怠け者のように思えたサークルの友人がいた。

性格は良いのだが、何かをお願いしても、
「やっとく」
と言うものの、やろうとしない。

締切日が近づいてもやろうとしないから、焦って催促すると、ようやく取り掛かる。締め切り間際には猛烈に頑張る。しかし、間に合わない。

さすがに私も怒る。なじると、逆ギレするのだ。

「そんなこと言っても、やる気にならないんだからしょうがないだろ」
「俺はそもそも精神的に不安定なんだから、いちいちうるさいことを言うなよ」

もともとメンタルに不安を感じている人で、それに配慮してつきあっていたつもりだったが、その物言いや、やる気の無さに我慢ができなくなり、つきあいを断った。

いくらなんでも、我慢にも限界がある、こいつとつきあうのはゴメンだ、と思った。

優秀なボスの高度な要求レベル

社会人になって、あるブラック企業に勤めたことがある。

待遇がブラックだったのはもちろんだが、私の上司の要求レベルは高く、彼の思うレベルで私が仕事をしないと叱責される。

「てめえ、こんなことも事前に準備していないのか」

「やる気あるのか? 俺が言わなくても事前にクライアントについてホームページや四季報あさって事業の要約作っておくのは常識だろ? 俺は出張先から合流するんだからさ」

「てめえ本当に使えないな。バカだろ?」

「お前はできるはずなのにやろうとしない。それは怠け者だということだろ?」

とにかく怒鳴られた。気に入らないと蹴られた。

自分の気に食わない返事をすると、すぐに蹴りが入るものだから、足元を警戒しつつ上司の要求を先読みする癖がついた。

どうしても許せないほどの恨み

彼から学んだこと、彼のお陰で身につけたことはたくさんある。

気が利かないレベルだったが、いつのころからか、別の職場では、
「◯◯さんほど気が回る人はいない」
と褒められるほどには、他人の欲求の先読みができるようになっていた。

悪辣上司に出会うまでは、他人の意思を忖度することをおべっかのたぐいだと思って嫌っていた。他人にペコペコして、気遣って生きるのは嫌だと考えていた。

それが、強制的にプライドを粉々にされたお陰で、気軽に他人に評価されるように行動できるようになったのだった。

しょせんこの世は、他人に評価をしてもらうことで社会的地位を築いていく。直属の上司だけではなく、顧客であったり、世間であったり、すべて他人からどう評価されるかによって、社会的地位が築かれ、得る報酬が上がっていく。

「好きなことで、生きていく」

というコピーで有名なYouTuberだって、視聴者が評価をするから報酬を得ることができる。

視聴者という他人の歓心を得ることを目的として彼らは生きているのであって、それが嫌な人間は、YouTuberとして生きていくことはできないから、好きなことで生きていくことができない。

他人の気持ちや欲求が何かを考えながら生きるのは、人生をうまく生きるためには当たり前の行動だった。

とはいえ、ここまで冷静に思えるようになったのは、最近になってからで、悪辣な上司のもとを辞めて数年以上は許せなかった。恨みも消えなかった。

彼から怒鳴られ、侮蔑された数々の言葉をいつまでも思い返しては恨みをつのらせていた。

上司を否定したければ、学生時代の自分を否定すべき

悪辣上司から得たものがあることを冷静に振り返るようになったころに、ふと学生時代の友人のことを思い出した。

学生時代の腹立ちを今では懐かしく思い出すと同時に、悪辣上司と自分の姿が重なるのを覚えた。

求めるレベルは違うにしても、できない人間に苛立ち、怒鳴り、相手が怠惰だと責めた点は同じじゃないか。

上司から怒鳴られたときの悔しい気持ちを、私から責められた時に、友人も感じていたのではないか? 友人は精神科などにかかっていたわけではないが、家庭環境が影響で精神的によろしくないと話してくれていた。怠惰ではあったとしても、その原因は彼の責任ではないのだ。

もちろん私なりに彼の事情を気遣い、どうしてもやる気がおきないと愚痴っている彼の態度に対して、いくつも目をつぶってきた。

しかし、学生はそこまで大人になれず、本人に責任があるのにやろうとしないのには、我慢がならなかった。

たとえば自分から忘年会の場所を手配すると約束しながら、直前まで何も動かず、忘年会シーズンのために予約を取れなくて忘年会自体が流れるとか、深刻な迷惑だった。

誰でもできる簡単なことをやらないのは彼が悪いと考えたが、あの悪辣上司の要求レベルは、上司にとっては誰でもできることに思えたはずで、その上司が私を責めることを否定したいならば、友人を責める私もまた、否定されなければならない。

許せる叱責と許せない叱責?

そこまで考える必要はない、と言われたことがある。

あなたの上司の要求はレベルが高すぎた。何も命じていないことでも先読みしてやれ、とか。それに対して、学生時代の友人に求めたことは、低レベルの欲求でしょ。

家族だったら我慢して一生付き合うしか無いけど、友人からそこまでの感情的な配慮を求められるのは対等じゃない。依存される関係であり、自分が損をするだけ。

たしかにそうであり、友人と縁を切ったことは正解だとは思う。しかし、依存されないように距離を保ちつつも、もう少しうまくつきあう方法はなかったか。

できないことを責めない

その一つが、できないことを責めない、という簡単なルールだ。

たしかに依存関係に陥ることは避けなければならない。依存された場合、自分が損をするだけだからだ。しかし、出来ない人間、能力のない人間を不愉快にさせずに、つきあうことはできた。

それは、出来る人間、能力のある人間にとっての義務ではないか?

極端な話をすると、障害のある人に、これをやれ、なぜ出来ない? と責めはしない。そして、障害のある人が不便を感じることを、自分に負担のかからない程度でサポートをする。これは、現代人にとって当然のマナーだ。

できない人間との接し方だって、同じようなマナーを持つことは出来るだろう。

できない点をあきらめ、サポートするのが社会生活というものだ。

自分にとっては簡単にできることでも、他人には簡単にできないことなど、たくさんある。それを許容して、相手がこういうことは不得手だということを早めに認識して、サポートできれば、相手と楽しく過ごすことが出来る。

しかし、自分に負担が生じるばかりで相手から受ける利益が少ないならば、怒るのではなく、距離を保つ。打算的だが、自分ばかり損をする関係は正常な関係とは言えない。他人への配慮はあくまで余裕の範囲内で行わねばならない。

仕事での関係性は?

「できないことを責めない? そんな余裕が仕事にあるか?」

ビジネスで求められることはもっと切羽詰まっていて、急いで教育をするために怒鳴りつけ、叱責して強制的に部下のレベルを上げなければならない、それがわからないのか? という反論を受けるかもしれない。

しかし、そこまでの即効性を求められるのは戦争くらいだ。仕事は戦場のようなものだが、それでも生死を決める戦場ではないのだから、日常的に怒鳴り、叱責することが許されてはならない。

会社生活は何年も続く。社員の心理に高負荷をかけ続ければ壊れる個体が続出する。それを許してはならない。その一歩として、他人ができないからといって責めることを辞める習慣をつけることだ。

ぱくたそ

他人の心を壊すほどに強烈なストレスを与える権利は、誰にもない。

他人の欠点を許す習慣を

あの悪辣上司を、私は許してはならないと思っている。彼から得たものは大きいが、彼の存在を肯定することは、彼のやり方さえ肯定する危険性を含む。

自分が他人の心を傷つけないためにも、できない人間ができないことに怒るのではなく、自分がどう工夫をすれば、相手の能力の欠如をサポートできるのかを考える習慣をつけたい。

優しくなれ、とは言わない。しかし、弱者に優しくなる習慣をつければ、多くの人々から評価を受けるだろうし、人生にとってプラスになることは確かだ。

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