過去の幸運やキャリアを否定するな

過去の幸運やキャリアを否定するな

『鉄道員(ぽっぽや)』や『壬生義士伝(みぶぎしでん)』でお馴染みの作家・浅田次郎さんが指摘していたと思うが、金持ちの家に生まれて、そのあと幼少期に家庭の事情で没落した人は、どん底の人生を歩むものの、数十年経つと、成功者としてのしあがっていくことが多いのだという。

本来性への希求

そのエネルギーの一つが「自分は本来金持ちなんだ」という強烈な自負心だという。

底辺から這い上がるためには膨大なエネルギーを必要とする。尋常ではない努力が必要となる。人とは異なる工夫が必要となる。

この尋常ではない努力や工夫のエネルギーの出どころが「自分は本来金持ちだった」という本来性への追求であり、現状への憤りだ。

発奮材料があるから、人並み以上に頑張ることができるのだという。

「自負心」といえば聞こえは良い。だが言い換えれば「過去の栄光の記憶をいつまでも忘れられない」ということでもある。

かっこ悪くても良いじゃない

過去の栄光を自慢する人をかっこ悪い、ダサいと否定する人の心の底に劣等感があることについて、「自慢話とマウントの取り合いについて」という記事で言及した。

ただ、自慢話を聞く側だけではなく、自慢話をする側にも劣等感がある。

現実の自分への劣等感だ。

過去の栄光にすがることは、今を誇れないという現実であり、弱さの自覚である。それを見透かす人の目には、弱く、カッコ悪いものに映る。

実際かっこ悪いのだが、将来への発奮にできるのならば、大いに活用するべきだ。

過去の栄光や理想を心に思い浮かべ、それをもう一度取り戻してやる、と固く決意する人は、何年掛けてでも、現状を変えようと努力ができる人だからだ。

高学歴を誇れない人々

ところが、過去の、あるいは今の栄光ですら、素直に誇れない人々がいる。

たとえば、せっかく高学歴となる大学を卒業しながら、自分が高学歴であることに劣等感を持つような人だ。

高学歴だからといって、未知数の実力の持ち主。しかし世間は必要以上に持ち上げる。それをに大学入学後に違和感を覚え、居心地悪く感じる人々だ。

本来の実力とかけ離れた評価を得たことに、身の置き所のない気分を味わい、敢えて堕落しようとする。

昔だったら麻雀などの賭け事に没頭したり、悪所に通ったりしてみせる。さらには、大学卒業後に女性のヒモになってみたり、敢えて肉体労働に従事したり。

昔の高学歴者には、身を持ち崩した人が一定数いた。

 金持ちである自分が嫌いな人々

あるいは、生まれつきの金持ちであるにも関わらず、貧しい人への同情心が高じて自分を否定しようとする人々がいる。

資本主義社会の恩恵を最大限に受けた自分の家族をうとましく思い、ついには金持ちとして生を受けたこと自体を恥ずかしいと思うのだ。

世の中の貧しい人々に対して、自分のような存在がいる事が害悪であり、申し訳ないと考える。

かつての社会主義者にこの手の人々が大勢いたし、今も、せっかく生まれながらにくわえていた銀の匙を吐き捨て、汚泥に身を投じる人が一定数現れる。

ぱくたそ

強者を呪う人に迎合するな

もったいない話である。

一方で、過去の栄光こそ本来の自分であると考えて、その栄光を取り戻そうとする人々がいるというのに、もう一方では、現在の、あるいは直近の栄光を汚らわしいと考え、捨て去ろうとするのだから。

どちらが健全だろうか? と言えば、明らかに過去の栄光を引きずり、その栄光を取り戻そうとする人々だろう。彼らはより良きものになろうと努力し、成長しようとしている。幸福になろうとしている。

それに対して、栄光を捨てようとする人は、堕落への努力であり、貧しくなろうとする努力であり、向上と繁栄への反発だ。そこからは呪いしか生まれない。

さらに言えば、それは一種の迎合だ。

学歴批判の社会風潮に評価してもらうための迎合であり、金持ちを否定する貧しい人々への迎合であり、さまざまな栄光やキャリアを否定しようとする人々への迎合である。

それは強者を呪う者たちへの迎合だ。

強者でありながら、人非人な発言をする愚か者がいる。苦しむ人々をバカにして受けを狙う人がいる。それに対して批判の声を上げるのは、社会を良いものへと変える大切な行為だ。それと、強者である、というだけで呪うこととは全く違う。しかし、金があったり地位が会ったりするだけで面白く思わない低俗な人々は数多い。

そのような人々に評価されようとする人生は、いずれ後悔へと向かう。

ワープアからの脱出法カテゴリの最新記事